空手の自主トレを初めてから、自分がやっていることの“そもそも”を知りたくなって、いろいろな型や空手伝承の地、空手史、琉球新報の“沖縄の武技”等、調べてきた。前回、首里手・泊手、那覇手の由来を技術構造から整理したが、歴史年代の整合性はどうか、ふと気になった。ティーの成立時期を考えるために、柔術・組討・中国拳法・冊封使・日本文化の影響などを年代順に検証してみた(前回に続き、殆ど以前書いた内容で、自分の頭の整理のための主観です)。
京阿波根実基がティーの使い手だったという説があるので、1523年には琉球王国にティーが既に存在していたことになる。一方、琉球王国で取手(柔術)が流行ったのは記録上1600年前後のようである。すると、ここで疑問が生じる。柔術はいつ成立し、薩摩侵攻前(〜1609年)の日本と琉球王国の関係はどの程度あったのか?
調べると、“柔術”として体系化された(組討ち・捕り手が武術体型として整った)のは戦国時代、1400年代~1600年頃である。これは上記ティーの存在時期と矛盾しない。しかし、琉球王国の歴史を考えると、
・中国では520年に達磨大使が上陸し、後に少林拳が成立
・三山抗争の1372年から冊封使が慣習化(2回目は1404年)
となるので、柔術の体系化が1400年代以降であれば、中国拳法が琉球に伝わった時期より柔術が伝わった時期の方が遅い可能性があることになる。
さらに調べると、垂仁天皇7年(西暦年不明:紀元前90~192年のばらつきあり)の野見宿禰・当麻蹴速の試合が角力の起源であり(古事記や日本書記の記載)、“柔術”の素となった組討・捕手の起源は角力と言われている。これは柔術や空手等、徒手空拳の起源として多くの書物でも指摘されている。
よって、この頃には徒手空拳の組討ち術が日本国内に存在していた(奈良時代頃には世界各地にもあったらしい)。
つまり、1372年に冊封使が慣習化した時点で、日本には徒手空拳の組討ち術が既に存在していた。このため、「柔術の素となった組討・捕手技が琉球王国に伝わってティーとなった」ということは年代的に矛盾しない。
以前書いたように、ティーの成り立ちが首里・泊、那覇の極狭い地域でのものであれば、その成立は三山抗争終了後(1429年~)と考えられる。すると年代的には
・中国拳法起源説
・日本の柔術起源説
のどちらも成立し得る。
当時、琉球王国は独立国であり、中国とは冊封関係にあったが、日本との文化交流も存在した。第二尚氏時代、1500年代初頭から編纂されたおもろ草紙は主にひらがなで書かれていることから、この時期の琉球王国は日本文化の影響を強く受けていたと考えられる。
以上から、首里手の起源はやはり、柔術のような徒手空拳の組討ち術であったと考えるに至った。但し、柔術には現代の空手のような型は存在しない。組討ち術は相手がいなければ練習にならないため、型が発達しなかったのは当然である。以前書いたように、空手の棒術は使い方が異なるので中国拳法の棍術ではなく、日本伝来と考えられるが、日本の棒術にも空手の棒術のような「型」は存在しないようである(組手練習の型はある)。
すると何故、琉球王国の士族は、ティーや棒術の型を創作する必要があったのだろうか。
日本本土の柔術・棒術には、琉球王国でやられていたような型は存在しないが、型はなくてもそれらの技は現代まで伝承されている。むしろ、技の伝承には組手が必須であり、型だけでは伝承できないので、武術伝承目的では型創作の必然性・動機が無い。では、なぜか・・?
“沖縄の武技”における安里安恒氏の見解(元々は舞方から・・)と、士族の宴席・儀礼・祝宴 で舞方が行われていたであろうことから考えると、琉球士族が演芸(武的舞踊)・舞方として創作し、士族の嗜みとして伝承、那覇手の型(中国拳法の套路)の影響を受けて楽曲のない型となり、別途対人稽古をやることを前提にティーの技の形を残すための手段としての有効性、身体操作の練習法・体育としての有効性も認められて体系化された、と言ったところだろうか。
ちなみに前回、ワンシュウや公相君は琉球士族の創作で、名前だけ借りたモノとの説を記載した。そうすると、ワンシュウ来琉が1683年、公相君来琉が1756年であり、1762年の大島筆記において琉球士族の手に公相君という名の型があるとの記述があることから、公相君は1756年~1762年の間に創作されたものということになる。もちろん、それ以前に創作され、1756年~に名付けられた可能性もあるし、「公相君」という名詞は人名ではなく、「高官殿」「宰相殿」に相当する尊称で、唐代から使われていた一般名詞らしいので、1756年以前に既に存在し、1756年に来琉した高官をその型とは関係無く、公相君と称した可能性もある(つまり、1756年は関係無し)。
では誰が? その頃の空手史上の人物を見ると、佐久川寛賀氏は1782-1838年なので公相君創作に関わった可能性はなく、1600年頃~存在した北谷屋良氏くらいだろうか。1740-1812年の北谷屋良利導氏が第5代ということなので、1756年頃であれば年代的には北谷屋良第4代と言ったところか。それ以前であれば初代が1600年頃~なので、~第3代の可能性もある。
1778年の阿嘉親雲上直識遺言書に「からむとう」の記述があるが、この人物は武術体型の整備者であって、型の創作者ではなさそうである。
ちなみに、史料・年代・技術構造から導かれる“学術的推定”として首里手古流の成立期=1700〜1760年頃ということが研究者に支持されているらしい。首里手成立には、北谷屋良一族がかなり関係していそうですね。
なお、首里手古流の成立期=1700〜1760年頃というのは型体系の成立期を指すものであり、 武術文化としての首里手の成立期ではないでしょうね。京阿波根実基がティーの使い手だったという説があるので、1523年には琉球王国にティーが既に存在していたはずだから。

琉球史(簡易版)