首里手愛好会/Society_of_shurite_fans

空手の型をやっていて思うこと

玄制流の型(2)

 先日祝嶺先生が話をされている動画を紹介しましたが、以前、玄制流のワンカンとローハイは伝承が判らないと記載したことがあり、先日の動画のワンカンを見ていて以前竜奇さんから戴いたコメントを思い出して改めて見てみた。

古伝の型-ワンカン、ローハイ/Traditional Kata-Wankan、Rohai - 首里手愛好会/Society_of_shurite_fans → 最下段にコメントを公開してあります。

 

 その中で比嘉清徳氏の神道流武芸館のワンカンとローハイの構成が玄制流ととても似ている。他にも糸東流の松風や松源流、松林流等も似ているが、比嘉清徳氏は岸本祖孝氏の弟子(祝嶺先生の兄弟子)なので、祝嶺先生との交流もあったと思われる。よって、泊の武士から比嘉家に伝承された(竜奇氏コメント参照)ワンカンとローハイが祝嶺先生に伝わった可能性が高そうである。

 そうすると玄制流の伝承で判らないのは残り、阿吽の型とバッサイ小(以前記載したが松林流等に構成が似ている)の2つの出自であるが、バッサイ小は泊手の型と思っており、これらも比嘉清徳氏経由なのかも知れない(阿吽の型も遠い記憶であるがS.I先生が泊手の型と言っていたような気がする)。

 

 因みに、ワンカンとローハイは泊の武士の名城政好(多分、里之子)親雲上→ 比嘉民真氏→ 比嘉清徳氏と伝わったとのことなので名城親雲上について調べてみたが真壁村の脇地頭に名城里之子親雲上と言う人物が居たらしいということしか判らなかった。真壁地区の名城村は沖縄本島の南端であり、泊地区とはかなり離れる。その子孫か縁者でも泊地区に居られたのだろうか。

   

   (出典:糸満市教育委員会 旧真壁村集落ガイドマップ)

 

松村正統少林流(ナイハンチ)

松村正統少林流の約30年前に撮られたという動画を見つけた。

 

Shorin Ryu Matsumura Seito Karate Australia Kata by Ron Goninan~Sensei - YouTube

 ・~ 1:33 見たことがないが、基本型の模様。

 ・~ 5:07 ナイハンチ(初段、二段、三段)

 ・~ 8:00 ピンアン(初段・二段)

 ・~12:29 バッサイ(2種:大・小?)

 ・~14:32 チントウ

 ・~17:20 公相君

 ・~19:56 ウーセーシー

 ・~21:45 ローハイ

 ・~25:07 津堅の棍(チキンヌクンと言っているように聞こえるので多分)

 

 30年前と言うと筆者は30歳頃で、ついこの間(ごく最近)のように感じる。この中で興味を惹かれたのはナイハンチ初段と三段の2つ。

 ナイハンチ初段では鉤突き・中段受け代え動作の後、波返しから左右に中段受けする箇所があるが、2本目の中段受けを正面に向けてやっている。祖堅方範氏の動画(↓)を見ると左右に受けているので恐らく改変されているのだろう(カメラを意識して目線は正面を向いているようにも見えるが・・)。

この部分は、どのような解釈(所謂分解動作)で改変されたのだろうか。

 

Soken Hohan shinshii, Naihanchi Shodan & Nidan 祖堅方範先生 ナイハンチ初段と二段 - YouTube

 

 また、船越義珍先生ベースのハイハンチ三段は、最初の中段受けから左右で受け直した後、中段受けをパタンと倒す動作があるが以前も記載した(と思う)ようにこの部分~の解釈が小生はイマイチはっきりしていない。その部分が上述の動画(3:56~)では、下段交差受けとなっており、その後、側面の中段受け、正面内受け、正面への突きとなっている。連続動作としてはこちらの動作の方が素直で解釈し易そうに思われる。残念ながら祖堅方範氏のナイハンチ三段の動画は見つからず。

 一つのパターンとしてしばらくこの動作の練習もしてみるか、と思った次第。

柔術(3)

 またYoutubeであるが、“柔道の古い手首のロック”との動画で、写っていた写真が船越義珍氏の教範に載っていたナイハンチの変手の写真によく似ていたので(下記左)興味が湧いて見てみた。

 

www.youtube.com

 

 見ると白黒動画で古い柔術の映像があり、突き・鉄槌・手刀・蹴り、上段上げ受けからの取手、最後の方では棒術も出てくるので、昔の空手の映像だと言って紹介したら皆さん、信じるのではなかろうか。

 動画に出てくる写真(何かの教範?)は、解説にArima’s Judo handbook of 1919と記載されているので調べたところ、有馬純臣著1914年発行の柔道教範のようである。上記146-147ページの写真等、同じ物であった。国立国会図書館からインターネット公開されているので、ダウンロードしてざっと見てみたが残念ながら突・蹴等の動作に関する解説は無かった。ただ、柔術の起源・伝承に関する解説があるようなので後日じっくり読もうかと思った次第。以前記載したけれども柔術の起源として「垂仁天皇7年(西暦紀元前23年)に宿禰と蹴速が角力で足を挙げて蹴り合い、脇骨を蹴折り・・当時は相撲柔術の区別もなく・・柔術に酷似した・・」等の記載があった。

祝嶺正献先生

 Youtubeを開いたら祝嶺先生の顔が目に入ったので見てみた。玄制流道場の指導員/道場生とのやり取りを納めたもので、他に祝嶺先生の考え方を直接聞いたことはなく(著書は別として)、筆者にはとても貴重な内容であった。

 

 玄制流空手道 創始者 祝嶺正献先生による型の説明と考え方。An explanation of Gensei Ryu Kata by the founder of Gensei Ryu Karate. - YouTube

 玄制流空手道 創始者 祝嶺正献先生による型の説明と考え方 Part2. An explanation of Kata by the founder of Gensei Ryu Karate. - YouTube

 玄制流空手道 創始者 祝嶺正献先生による型の説明と考え方 Part3. An explanation of Kata by the founder of Gensei Ryu Karate. - YouTube

 

 一つ目の動画の最初の方でS.I先生の名前も出ていた。「祝嶺先生がご指導されていたS.Iさんと会う機会が有り・・」と、流石に玄制流では知られた方のようである。

 この動画のやり取りの中で意外だったのが、祝嶺先生の考えとして型は時代、人によってどんどん変化するものであり、それが当然だとの話である。確かにS.I先生もよく「ここは、昔はこうだったのだけどこう変えたんだよ」という話をされていた。筆者は以前書いたが、特に流派を代表するような指導者であれば型は極力教えられた原型のまま伝承し、人それぞれの解釈があるなら「こういう解釈もあるよ」と教えるべきだと思っている。祝嶺先生の考えだと、それでは進歩がないのかも知れない。原型は知った上で、それはそれとしていろいろ考えろと言うことか。

 ただ、面白かったのがワンカンについて、指導員(?)が「従来教えられた通りだと、最後に元の位置に戻れない。だから最後に一歩踏み込んで手刀受けを入れるようにした。」と言う説明をしたところ、祝嶺先生はあっさりと「それはやらない方が良いね」と仰っておられたことである。型の細かい動作や解釈はどんどん変化しても良いが型そのものを改変するようなことは止めた方が良いということか・・。「天・地・人や三才は元の位置に戻るように創ったが、古い昔の型は必ずしも元の位置に戻らないしそこはそんなに拘る必要はない」そうである(言い方は違ったかも知れない)。

 また、指導員(?)が「型の動作で手刀受けから取手受けに変えられた部分があるようであるが?」 と質問したところ祝嶺先生は「取手受と手刀受ってどう違うの?」と仰っておられ、思わず笑ってしまった。両者は受けとしては同じ物で、受けた後に引っ掛けて捕まえるのが取手ということである。

 あと、“教えられたまま”と言うワンカンの演武もあった。玄制流宗家を名乗る方の教本ベースで覚えた型と前屈・後屈や細かい動作が微妙に異なっており、筆者には大いに参考になった。こういう動画、お持ちの方はどんどん公開して戴けないものか・・・。

空手伝承の地、沖縄5

以前、琉球王国時代の首里・泊・那覇地区の地形を調べてみたことがあるが、Googleでたまたま、都城島津邸所蔵の琉球諸島の古絵図がウェブ公開されたとのニュースがあり、見てみた。

 FAQで下記のように書かれていたので絵の貼付は見合わせるが、リンクを貼ることはご自由にとのことなので貼っておく。ご参考。

 

 

原典:https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/collection/digitalgallery/ryukyu_miyakonojo/item/20006

模写:https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/collection/digitalgallery/ryukyu_miyakonojo/mirador/?manifest=https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/collection/digitalgallery/ryukyu_miyakonojo/iiif/hi/manifest.json

 (個人的には模写の方がクリアで見易い。)

 

 以前紹介した絵図は年代がイマイチ特定し難かったが、今回は1635~1666年の間(江戸時代初期)とのことでかなり絞られる。これを見るとこの時点で那覇周辺の埋め立てはかなり進んでおり、首里・泊・那覇の位置関係もとてもはっきりしているようである。

以前紹介したが1596-1615年に琉球で取手(柔術)が流行したとの記録があるので(真境名安興「沖縄一千年史」)、この地形の時以降には3つの地域でそれぞれの武術が稽古・伝承されていたのだろうなぁ、と思いつつ眺めておりました。

ナイハンチ(25)-移動時の波返し動作

 自主トレでナイハンチの練習を欠かすことは無いが、先日、相手を想定しながら順を追っていて“アレ?”と思ったので参考まで。

 相手の背後に廻ってその突き手を下段払い動作で取って下げ卸し、捻り上げながら鉤突き動作で肩関節を極める。以前も紹介した動作である(「隠されていた空手」がベースです)。

 その時、相手は目の前で鉤突きの方向につんのめった形になるので、相手の膝裏を踏みつけたら良いんではなかろうかという気になった。下図であれば、義珍氏左足の波返しで相手の右膝裏を踏みつけ、跪かせるような動作となる。

   

       ↑錬膽護身唐手術より

 

 その流れで考えると、次の一歩は相手が跪かなかった際の膝蹴りとしたらどうだろうと思った。上図では義珍氏の右膝となる。 

 以前、ナイハンチの移動動作は、人によって(流派によって?)波返しを入れたり、足を真っ直ぐ上に上げたり等、動作が異なることを紹介したことがある。一方で、船越義珍先生の琉球拳法唐手・錬膽護身唐手術、本部朝基先生の私の唐手術等のナイハンチでは、移動の際に波返しを入れるような記載はない。だから、その動作は、昭和初期に膝まで泥に埋まるような田圃で稽古していたときの(移動動作の際に泥から足を引き出す動作の)名残では無かろうかと記載した。筆者はそれ以来、船越義珍先生の初度の書籍、本部朝基先生の書籍等に従い、移動の際、波返しは入れずに練習している(やろうと思えばできるようには練習している)。

 ただ、上記のように考えると移動時の波返しや、膝を真っ直ぐ上に上げる動作も意味がありそうである。筆者は長年空手をやっていて、右の相手に背手・猿臂、背後(左)の相手(右側とは別の人物)からの下段攻撃に対して下段払い・鉤突きといった教えだったから、そんな教えを聞いたことはありませんが・・。

 

 ちなみに、琉球拳法唐手では、同箇所は以下のような写真が掲載されている。この場合、左足は波返しではなく、相手の足を踏み越え、そのまま足を引っ掛けて相手をうつ伏せに倒すような動作だろうか。

    

     ↑ 琉球拳法唐手より

雑談-新型コロナ(空手とは全く関係なし)

 筆者の職場は次の(月)(火)が休みであり4連休。その前の(火)の晩、空咳が少し気になった。平熱なのでいつもの喘息由来の咳かなと思っていたら、翌(水)の明け方前に38度超の発熱。一昨年には扁桃炎で40度超の発熱をしており、比較的熱には強い方であるがやけに倦怠感が強く、老齢化の上に季節の変わり目で体調を崩したのかなと思いつつ、念のため在宅勤務の昼休みに薬局へ行き、抗原検査キットを買ってきて調べてみたら陽性・・・。近所の内科は、既にその日の受付を終了しており、翌(木)に受診、薬を出して頂いた。

 抗原検査キットはネット情報によると擬陽性の可能性もあるようであるが、既に5類に変わっているので擬陽性でも陽性でも対応に変わりが有る訳でもなしと思ってPCRは受けなかった。(水)の晩(医者に行く前)、熱が39.9度まで上がり“また40度超えか・・”と思ったがそれがピーク。症状は頭痛・発熱・咽頭痛・咳とちょっと酷い倦怠感。殆ど眠れなかったが(木)は38度台、(金)には解熱剤服薬無しで37度台に下がり、(土)は終日37度以下。(日)には平熱に戻り、喉の違和感と咳が僅かに残っているのと数日間ずっと横になっていたせいで起きて居るとややふらつき感があるが、幸い味覚・嗅覚を含め他に症状は無し。ワクチン3回接種しておいて良かったと思った次第。

 新型コロナの潜伏期間は1~14日間(平均5日間)と言うことから、過去2週間を振り返り、思い当たる原因は以下の3通り。

・食材  :考えたくは無いが、スーパーで買った食材パックの外面や缶詰・缶飲料の外面が汚染されていた可能性。

・歯科医 :(月)に歯科医院へ治療に行った。多人数の先生が居られるところであるがいつもの先生が居られず、ちょっと違和感を感じた。もし、その時そこで他にも患者が発生していたら・・。

・通勤列車:マスク無しの人も増えてきたが筆者自身は常時マスクしており、リスクは低いが可能性ゼロではないかと。

 

 この4連休、天気も良さそうだし名古屋へ帰って緑地公園での自主トレをやろうかと思っていたので残念・・・。家族にも会えず・・。